千曲川信濃川

信濃川水系の水害

2018.07.18

千曲川・信濃川水系の主な災害を見てみましょう。長野県だけ、新潟県だけで発生している災害もあれば、両県にまたがり大きな被害を出している場合もあります。

このほかにもたくさん水害が起きていますが、このページでは死者が10名以上、または家屋の被害が10,000戸以上、あるいは8,000㎥/s以上(学校のプールを長さ25m、幅12m、深さ1.2mとして、1秒間でプール22杯分)の河川流量があった災害を抜き出しています。江戸時代では記録に残っていない災害もありますし、観測地点で流量が計測されるようになったのは昭和30年代からなので、これが全てではないことを忘れずに見てください。

信濃川水系 江戸時代までの主な大水害

水害を防いだり被害を軽くするための治水は江戸時代でも行われていましたが、人力でできることに限られ、おもに藩ごとに行われて川全体から考える根本的な治水ができませんでした。きちんとした記録を取る体制もなかったため、被害の規模は正確とは言えません。たとえば善光寺地震で起きた土砂崩れダムの決壊による大水害は、記録によって死者の数が大きく異なっています。

発生

被害の規模

概要

1742(寛保2)年8月 長野県→死者2,800名前後・被災建物は6,300戸あまり 「戌(いぬ)の満水」と呼ばれる、千曲川史上最大の大洪水。千曲川、犀川流域の各地が被災し、現在でも8月1日に水害供養を行う地域がある。
1751(宝暦7)年 新潟県→死者行方不明者1,000人 「宝暦の横田切れ」と呼ばれる。燕市横田で5〜6月の間4度破堤。「横田切れ」というと1896年の水害をさすが、破堤規模ではこちらの方が大きかった。横田切れ口説きhttps://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/?page_id=866
1847(弘化4)年5月 長野県→死者100~1,000人と推計 善光寺地震によって長野県各地で発生した地滑りで犀川がせき止められ、発生から19日後に土砂崩れダムが決壊して下流に位置した長野市、千曲市、飯山市などで大洪水が発生した。

信濃川水系 明治から終戦(昭和20年8月)までの主な大水害

日本が一つの国になり、欧米から近代的な機械を取り入れたことで大規模な治水対策が行われるようになったのがこの時代です。水害が毎年のように起こる新潟平野では江戸時代の初期から分水路の計画が幾度も立てられてきましたが、1896年の「横田切れ」の大災害を機に当時「東洋一の大工事」といわれた大河津分水路の建設が決定されます。千曲川でも1910年の豪雨災害を機に国の直轄治水工事が開始されました。しかし一方、この時期は日本が対外戦争をしていた時期でもあり、治水対策に使える予算も資材も限られていました。

発生

被害の規模

概要

1896(明治29)年7月 長野県→流失・浸水10,000戸以上 新潟県燕市横田の信濃川堤防決壊に象徴されるため「横田切れ」と呼ばれるが、山間部も含む信濃川水系のいたるところで洪水被害が多発し、新潟平野では水が引かなかったことによって伝染病が発生。長期にわたって被災生活が続いた。
新潟県→死傷者75名、流失家屋25,000戸以上
1910(明治43)年8月 長野県→流失・全壊259戸、浸水12,873戸 長野県内に降った豪雨によって千曲川をはじめ多くの河川が氾濫。水害常襲地域だった戸倉温泉では温泉施設が流失した。
1914(大正3)年8月 長野県→死傷者36、流失家屋30戸 新潟県に入ってから信濃川に合流する清津川、中津川の氾濫がもっともはなはだしく、下流の長岡市では市域の8割以上が浸水した。
新潟県→死者55名、流失家屋139戸
1917(大正6)年10月 新潟県→死傷者76名、流失家屋19戸 「曽川切れ」と呼ばれる。新潟市江南区の曽川水門から180mに渡って堤防が決壊。新潟市東区、江南区、中央区を含む「亀田郷」と呼ばれた地域の93%が冠水し、5万人が被災したといわれる。横田切れと同様長期にわたって水が引かなかった。

信濃川水系 昭和20年8月以降の主な大水害

これ以前と比べて件数が増えているのは、記録がしっかりしていることと、戦後人口が急激に増え核家族化も進み、都市部では人口密度が増えて、これまで家のなかった場所にも家が建つようになったことが一つの理由です。人がいないところでどれほど大きな洪水があっても「災害」とは呼びません。

 

そして昭和30年代からは河川の観測地点で1秒間にどれだけ水が流れたかを観測するようになりました。こうしたデータが整うことで、河川の治水対策も進みます。例えば2004年の水害では堤防が決壊した新潟県三条市を中心に15名の死者を出しましたが、その2年後に起きた水害ではどの観測地点でも2004年の水害を超える水が流れてきたのに大きな被害を出すことはありませんでした。これは2004年の被害から、より大きな水害に耐えられるよう復旧工事を行った成果といわれています。

 

また、コンピュータの進化で気象観測もより細やかな予測データを出せるようになっており、住民が安全に避難できるような対策も進んでいます。水害の被害を軽くするためには、治水対策だけでなく国や自治体のさまざまな組織、町内会や消防団などの自治組織、そして住民ひとり一人の行動が大きく関わっています。

発生

流量

被害の規模

1945(昭和20)年10月 長野県→死者42名、全壊102戸、浸水7,047戸
1956(昭和31)年7月 新潟県→死者7名、全半壊12戸、浸水2,336戸
1958(昭和33)年9月 立ヶ花で4,000㎥/s 長野県→死者9名、流失家屋19戸、全半壊71戸、浸水3,371戸
小千谷で7,320㎥/s 新潟県→死者19名、浸水12,152戸
1959(昭和34)年8月 立ヶ花で6,900㎥/s 長野県→死者65名、全半壊5,482戸、浸水15,197戸
小千谷で5,990㎥/s 新潟県→死者3名、浸水903戸
1961(昭和36)年6月 立ヶ花で6,470㎥/s 長野県→死者107名、全半壊1,524戸、浸水18,521戸
小千谷で7,470㎥/s 新潟県→全半壊42戸、浸水1,084戸
1961(昭和36)8月 帝石橋で2,670㎥/s 新潟県→死者3名、全半壊2,487戸、浸水7,138戸
1964(昭和39)年7月 帝石橋で1,940㎥/s 新潟県→全壊20戸、半壊と床上浸水2,730戸、床下浸水13,970戸
1967(昭和42)年8月 帝石橋で2,430㎥/s 新潟県→全壊21戸、半壊と床上浸水5,072戸、床下浸水12,496戸
1969(昭和44)年8月 立ヶ花で1,940㎥/s 長野県→浸水2,408戸
小千谷で5,600㎥/s 新潟県→死者9名、全壊122戸、半壊と床上浸水839戸、床下浸水7,447戸
1978(昭和53)年6月 帝石橋で2,270㎥/s 新潟県→全半壊31戸、浸水13,242戸
1981(昭和56)年8月 立ヶ花で4,580㎥/s 長野県→死者11名、浸水8,589戸
小千谷で10,140㎥/s 新潟県→死者2名、浸水2,948戸
1982(昭和57)年9月 立ヶ花で7,000㎥/s 長野県→死傷者54名、半壊2戸、浸水6,219戸
小千谷で9,890㎥/s 新潟県→半壊1戸、浸水374戸
1983(昭和58)年9月 立ヶ花で7,990㎥/s 長野県→死者9名、全半壊15戸、浸水6,584戸
小千谷で8,050㎥/s 浸水12戸
1998(平成10)年7月 帝石橋で1,720㎥/s 新潟県→半壊3戸、浸水10,264戸
2004(平成16)年7月 帝石橋で4,080㎥/s 新潟県→死者15名、全半壊979戸、浸水11,135戸
2006(平成18)年7月 立ヶ花で8,100㎥/s 長野県→浸水54戸
小千谷で8,830㎥/s

 

(出展 信濃川水系流域及び河川の概要 水害と治水の沿革

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